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韓国ドラマは恋愛ものから社会派へ

この夏、韓国ドラマは恋愛ものから社会派へ(朝鮮日報)

『エアシティー』も、まさかの失速、チェ・ジウさんも出ているのに視聴率には貢献できなかったようす。視聴者はドラマに誰が出演しているのかよりも、どんなドラマなのか内容重視で観るという。

「視聴者たちは現実を忘れ、ファンタジーの中で癒しを得るためにドラマを見ると考えられてきたが、韓国では似たような恋愛ドラマがこれまで過剰なほど溢れており、もうドラマにファンタジーを期待していないようだ」とSBSのク・ボングンドラマ局長。
それに対して朝鮮日報の記事では、「ドラマが現実から目を背けるための「逃避先」でなく、人生に役に立つ情報と指針を得るための「窓口」の役割を果たしている」と続けている。

韓国ドラマ=恋愛ファンタジー=逃避先
という図式は、あまりに短絡的だと言わざるをえない。
たとえば、カン・ドンウォン主演の『1%の奇跡』。
このドラマは上↑に書いた「韓国ドラマ=恋愛ファンタジー=逃避先」に当て嵌まるかと思われるが、「人生に役に立つ情報と指針を得るための「窓口」」ではなかったのかどうか。
財閥の御曹司と国語教師が契約で結ばれ、それがしだいに恋愛へと変わっていくという、現実にはありえない設定だから、ただちに「逃避」だと、たんなる「恋愛ファンタジー」だと言えるのかどうか…。

似たようなドラマはいっぱいある。『天国の階段』もそうだし、『冬のソナタ』もそうかもしれないし、『夏の香り』や『ガラスの華』もそうだろう。韓国ドラマを揶揄するときに、よく耳にする言葉、「ファンタジーの中で癒しを求める日本のオバサン」ほんとうに、そうだろうか…?

すべてのドラマはフィクションである。
恋愛に重きを置けば、ファンタジーになる。
しかしファンタジーも人物を掘り下げて行けば夢物語から逸脱し、現実を抱え込むことになるだろう。現実の問題にコミットしていく必要が出てくる。カン・ドンウォンが彼女に惹かれながらも荒っぽい性格を改めることができないのも、彼が抱え込んだ現実の1つだ。彼と彼女の甘すぎる恋愛模様に酔いたくて視聴者は続きを観るのではなく、尖がったり打ちひしがれたり和合したりと、その先の展開、ふたりの関係がどう変わっていくのか(あるいは変わらないままなのか)、観ているのはそこだと思う。「恋愛ファンタジー」という静止画を観ているわけではない。ドラマは必ず展開していく。どう展開していくのか、人物は、どう掘り下げられていくのか、その掘り下げ方に魅力を感じて観ているのだろうと思う。カン・ドンウォンが汲々となる、素朴だが、彼女のマトモな感覚は、観ていて気持ちのよいものだったし、ちょっと忘れかけた感覚でもあった、ことは確かだった。

どの役者が出ているのかだけでドラマを観る人は少ないだろう。『韓流ブームは去ったのか』の記事にも書いたけれど、それはその通りだと思う。視聴率と役者の人気は別物なのだ。
くわえて、韓国ドラマが変わりつつあるのは、この頃のドラマを観ていて凄く伝わってくる。サイドバーに設置したBBSにも書いたけれども、恋愛ものだけじゃなく、もっと別の視点からドラマを起こしてみたい、その意気込みは確かに感じられて、楽しみでもあり、嬉しくもある。

ただ「恋愛ファンタジー」云々は、ちょっと違うと思う。
このブログにも何度か書いたように、観ているのは設定ではない。「恋愛ファンタジー」でも掘り下げれば現実にコミットしていくわけで、甘いだけの話では終わらない筈だ。必要であれば、ここに書かれているような、「人生に役に立つ情報と指針を得るための「窓口」」にもなるだろう。つまり、「恋愛ファンタジー」だから視聴率が取れないのではなく、掘り下げが甘いから視聴率が取れないのである。

シリアスで難渋なドラマだけが人生の指針となるわけではない。一見して甘味の強いドラマであっても、きちんと人物が描けていれば、癒しの先にも立ち現れる。私は、どちらでもいいと思う。社会派でも恋愛ものでも。逆に心配なのは、社会派を描くだけで、なにか言った気になっている、底の浅い空気やムードだけ、というのがコワイかも…。

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