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韓国ドラマは設定が、パクリ?

韓国ドラマの設定について云々する記事が、意外と多くて驚いた。
腐すときはたいてい設定がベタだとかパクリだとか盗作だとか、ご丁寧にもたくさんの例を引いて熱心に腐す記事を書く人までいたくらいだ。
声の大きい人たちの言うとおり、設定に問題があるのかどうか…。

ここに1つ疑問がある。
どうして設定がパクリではいけないのか、それに誰も答えていない。

もう1つの疑問は、
パクった設定がダメなら、パクってない設定が良いということになるが、パクった設定ではない設定とは、いったいどこにあるのかということだ。

たとえば私がドラマの設定を考えるとして、三日三晩寝ないで考えたとして、もう限界という時になって、はっ! と閃き、これだ! と思い、どこにもない設定を考えついたと高揚し、書き出して誰かに読んでもらうとすると、その誰かは必ずこう言うだろう。

「その設定、すでに使われています。」

どこにもない設定など、どこにもないのである。
じぶんは「これだ!」と思っても、勉強不足で知らないだけで、じつはどこかの誰かがすでに使っている。この話は別のところにも書いたけれども、この話ほど理解してもらえない話はないようだ。その顔色から察するに、すでに使われている設定を使うことは、なにかラクして仕事をしているかのような軽蔑の色が見てとれる。だから『冬のソナタ』は『キャンディ・キャンディ』のパクリだなどと言った日には、すぐさま盗作だと騒ぎだすわけだ。狡賢い人間のように言われてしまう。ベタ、パクリ、盗作、こういった言葉はたぶんに軽蔑を含み、その裏側には、ベタ、パクリ、盗作ではない、見たこともないような、まったく新しい設定が、どこかにあるはずだという、信仰みたいな幻想がある。

くり返すが、どこにもない設定など、どこにもない。
すべて使われている。もはや新しい設定など作りようがない。
この設定の呪縛から逃れる方法は1つしかない。
物語を拒否することだ。物語にしない、つまり、ストーリーを作らないという方法しか、今のところ可能性はない。

AさんとBさんが、こうなって、ああなって…、というふうな物語にしないというのは、映画だったら出来るかもしれないが、ドラマには向かないと思う。ストーリーのないドラマなど誰が観るのかといった感じだ。ストーリーを作るかぎりは、そのストーリーで採用された設定は、すでに誰かが使ったもの、ベタであり、パクリであり、過激に言いたければ盗作でもあるわけだ。その意味で、すべてのドラマは盗作だと言ってもいいかもしれない。ハナから盗作なのに、「あれは盗作だ!」と騒ぐ人々は、どこにもない設定がどこかにあるはずだという幻想を見ているのだと思う。

しかしどうして同じドラマを観ているのに、一方は「盗作だ」と騒ぎ、もう一方は「感動しました」などと反対のことを言うのだろうか。
その理由は、おそらく見方が違うのだろうと思う。
ただひたすらにストーリーだけを追いかけて観ていけば、あたりまえ、どこかにある設定だから盗作だということになるけれども、ストーリーではなく、そこで演じられている登場人物たちの心の動きを中心に据えて観ていけば、これこそまさに、どこにもないドラマを観たという感動を味わえる。そう私はこれが言いたくて、この記事を書いた。

オリジナリティーというのは、ここにある。
どう足掻いたところでパクリになってしまう設定を使ってドラマを作るけれど、そこに流し込む生きた登場人物たちの心の動き、ここでしかオリジナリティーは発揮できない。つまり設定ではないということだ。登場人物たちが、どう思い、どうふるまうのか、大事なのはそこである。そこがパクリだと安っぽいドラマになってしまう。勝負どころは設定ではなく登場人物の心の動き。鮮やかに描かれるほど、また常識を引っくり返しているほどに、ドラマはグンと面白味を増す。「韓国ドラマはどれも似ていてパターンだよね?」といった見方は、ただひたすらにストーリーを追いかけている見方だと思う。登場人物たちの心の襞に、もっと分け入って観てみれば、また違ったふうに、見えるかもよ…?


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